ポール・マッカートニー&ウイングスとは...

1970年4月10日、ポールはビートルズ脱退表明を宣言。1970年代の幕開けと共に、ポール・マッカートニーはビートルズとは違う新しい道を歩み始めた。

ポールはソロ2枚「マッカートニー」と「ラム」を発表すると、いよいよ念願のバンド結成へと動き出した。まず、ポールにとって精神的支柱であった妻リンダにキーボードの手ほどきをはじめる。そして、ビートルズ時代ツアーで知り合ったムーディ・ブルースのギタリスト、デニー・レイン、アルバム『ラム』で意気投合したドラマー、デニー・シーウェル。これらポールを含む4人のメンバーが集まり、ライブ活動のためパーマネントなバンド、ウイングスを結成する。

最初のアルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』は、僅か3日間でレコーディングされたと言われているが、ポールのバンド結成直後の興奮がストレートに伝わって来るアルバムだ。気の合った仲間が集ってのジャム・セッションをそのまま実況中継したかのようなアルバムだからだ。もともと“Wings”とは、「ちょっと、やってみようか」という意味。そんな、気負いのない気持ちを込めてポールが結成したバンドだったのである。間もなくリード・ギタリスト、ヘンリー・マッカロウも参加し、1972年2月9日ウイングスのデビュー・コンサートがノッティンガム大学で行われた。

バンドはメンバー・チェンジが激しかったが、『レッド・ローズ・スピードウェイ』『バンド・オン・ザ・ラン』『ヴィーナス・アンド・マース』と快調にヒットを飛ばす。

  

1973年12月にリリースされたアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』はイギリス75万枚、アメリカ500万枚を売り上げ74年度のグラミー賞の3部門に輝いた。また、1975年5月に発売された『ヴィーナス・アンド・マース』はアメリカで予約だけで200万枚、全米・全英ともに1位を記録した。そして、この大成功を受けて、ついに初のワールド・ツアーが行われた。この年の11月に予定されていた日本公演は、ポールの麻薬前科のため許可が下りず中止となった。

アルバム『スピード・オブ・サウンド』発表後、ウイングス初のアメリカ公演が計26都市で31回行われ、なんと60万人の集客を記録、ウイングスはグループの黄金期を迎え、グループとしての頂点を極めたのである。この模様はアルバム『ウイングス・U.S.A.ライヴ!!』で発表された(ライヴ映画「ロック・ショウ」も1981年に劇場公開され、のちにビデオ化)

 

その後、ウイングスは洋上に浮かぶ船に機材を持ち込んでレコーディングした『ロンドン・タウン』を発表。そしてヒット曲をまとめた『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』が発売された。

 

次の『バック・トゥ・ジ・エッグ』の2曲では、ザ・フーやピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンのメンバーなど総勢20人以上の超豪華ゲストを招いてセッションを行なう。「ロケストラ」と名づけられたこのセッションは1979年にポールらの呼びかけで開催された「カンボジア難民救済コンサート」でも再現された。

そして、1980年1月16日、ようやくウイングスの日本公演が実現する運びとなったが、ポールが大麻219グラムを所持していたため、成田にて大麻取締法違反の現行犯で逮捕され、またもや日本公演は幻となったのだった。同年12月には、ジョン・レノンの射殺という事件にポールは大きなショックを受ける。

1981年に入り、ソロ・アルバムを発表することを決意し、ウイングスはオリジナル・メンバーのデニー・レインが脱退したことで4月に正式に解散。ポールが率いたウイングスは音楽史上驚異的な記録を残し、1970年代の終焉と共にその幕を閉じる。

そして、解散から20年の歳月を経て、ポールはウイングス時代の活動を集大成したウイングスパンというプロジェクトを進め、2枚組ベスト・アルバム『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー』を5月に発売、リンダとの出会いからウイングスの解散までをまとめたテレビ・ドキュメンタリー「WINGSPAN」がアメリカやイギリスで放送されている。

 

 

ウイングスのメンバー  とても秀逸なコンテンツです。

 


ウイングスを聞くなら、これ!

 バンド・オン・ザ・ラン  これを聞かずにウイングスを語ることなかれ。ロック史に残る名盤。

 ウイングス・U.S.A.ライヴ!!  全盛期のウイングスを知りたい人のために。

 夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー  初心者からマニアまで、多彩な選曲のベスト盤。